2018年1月10日水曜日

ポパーは「議論するときに、自分が絶対に正しいと考えてはいけない」と言っている

最近、「ポパー哲学」への手引というWebページを知って少し読んでみた。ふむふむ、共感できる部分が多いぞ、と思った。

ポパーは「議論するときに、自分が絶対に正しいと考えてはいけない」と言っている。


Webサイトを読んでザックリ認識した部分

リンク先Webページは長いので、「付録 頭の電気掃除機ポパー哲学 (ポパー哲学入門)」の中で興味深かった部分を要点を箇条書きにする。本文のどの部分を元に要点を出しているかは、この記事の後半にまとめる。

  • 人間は自分からみた物事の捉え方しかできないので、認知した物事は常に「不正確」であると理解すること。
  • 人間は言葉で考える。よって、曖昧な言葉を使えば、思考も曖昧になる。
  • [思考している人]が異なれば[考えられた内容]は別物であり、複数人での共通認識は簡単でない。複数人の[考えられた内容]を近付ける為には客観的な視点が必要。
  • 客観的真理は証明できないのだから、人間が「真理」を主張するのは間違っている。(ただし、数学や論理学などルールに沿った仕組みのものは当てはまらない)
  • 自分の考えが間違っている可能性を常に意識すること。
  • 真理であることの証明は不可能だが、否定ならできる。否定できない物事は真理に”近い”と考えられる。
  • 反証の余地が無い表現は、真理に近付かない。つまり、議論するだけ無駄。
  • 自分の考えが絶対に間違いのないものだとは思ってはいけない。
これらの点は、Webサイトの筆者と私の視点を通した、ポパーの主張であるので、実際は、ポパーさんの主張でない可能性もある。(ポパーさんの思考プロセスはこういうもののはず)

これらを考慮して、

ポパーは「議論するときに、自分が絶対に正しいと考えてはいけない」と言っている

と判断した。


ポパー流、真理らしいか嘘かの判断方法

参考サイトの「〇頭の電気掃除機」の章、「2 真理へのアプローチ(誤りの排除)」の段落に、ポパーの真理の探求方法が書いてある。(ポパーは真理の証明は不可能と言っている。)

例えば、血液型の鑑定によって、親子関係が存在するかどうかを判定するとします。両親が共にA型で、子供がA型だとしても、その子供が実子であるとは限りません。他のA型の人の子供だということもありうるわけです。つまり、事実をもってしても、実子であるということは断定できないわけです。 
けれども、両親がA型なのに子供がB型だというならば、実子ではないということが断定できる。つまり、事実をもってすれば否定は確定的にできるのです。 
要するに、理論を事実とてらし合わせてみて一致したといっても、その理論が正しいということにはならない。しかし、逆に、一致しないから間違いであるということは断定できる。肯定はできないが、否定ならできるというわけです。ですから、実証とか検証による理論の正当化は厳密な意味では不可能であり、誤りを発見し、排除することによって真理に近づくことしかできないとポパーはいうのです。 
相手の主張に対して、「否定する客観的内容を探す」ことが重要とのこと。なるほど、分かりやすい。



納得がいかないなら否定してみよう!

「ポパーは「議論するときに、自分が絶対に正しいと考えてはいけない」と言っている。」が間違っていると思うならば、これを否定する客観的証拠を出せばよい。つまり、ポパーさんが「議論するときに、自分が絶対に正しいと考えるべき」と主張している引用を持って来れば、私の主張を簡単に否定できる。(私は参照サイトしかみていないからどこかで言っているかもしれない)

もし、否定できない場合は、この主張が真理に”近い”ということである。



付録:Webサイトのどの部分に着目したかのまとめ

前半で、興味深かった部分を要点を箇条書きにしたが、それらは参照サイトの本文を自分なりに解釈したものである。それの場所をそれぞれ書いておく。この章は大部分が参照サイトの引用なので、詳しく前後も読みたい場合は、参照サイトを見るとよい。。

なお、全て「〇頭の電気掃除機」の章である。

二、認識の方法[認識のサーチライト理論]より。
何でもなさそうな花という物質についてさえこうなんですから、子どもについての理解とか、相手の考え方を捉えるなどという問題になりますと、捉えられる相手自体がどうのこうのというまえに、捉える側のサーチライトの角度、光源の明るさ、フィルターの色、つまり、自分のもっている関心や尺度や価値観・能力・イマジネーションはどの程度のものかということを考えてみなければならないということになります。そういうものが、認識の内容を左右する重大な要素になっているというわけで、人間は、同じものごとを見聞きしても、自分の器量に応じた捉え方しかできていないのだということをくれぐれも承知していないといけないわけです。
→人間は自分からみた物事の捉え方しかできないので、認知した物事は常に「不正確」であると理解すること。

三、言語と思考 より。
次に大切なことは、人間は頭でものごとを考えるというよりは、むしろ、「言葉で考える」といったほうがよいくらい、人間の思考ということにとって言語が重要な役割を果たしているという事実です。
意味の曖昧な言葉を使っている限りは、思考内容も必然的に曖昧でしかないということになります。
→人間は言葉で考える。よって、曖昧な言葉を使えば、思考も曖昧になる。

四、認識内容・認識する者・認識対象 より。
[ことがら]と、[思考している人]と、その人によって[考えられた内容]というものは、相互に密接な関係はあるだろうけれども、厳密にいえば別個のものであるということです。 それをポパーは、便宜的に世界1、世界2、世界3、という呼び名で分類し説明しております。 
ポパーのこの論によれば、相手は[世界2]、議論している内容は[世界3]で、別個のものなのですから、内容そのもの[世界3]が、お互いの共通理解のできる客観的なものになるように、お互いが意識して議論をしなければいけないのだ、ということになります。 
→ [思考している人]が異なれば[考えられた内容]は別物であり、複数人での共通認識は簡単でない。複数人の[考えられた内容]を近付ける為には客観的な視点が必要。

五、妥当な認識へのアプローチ、1 真理であることの「実証」は不可能である より。
客観的真理はあるけれども、人間によって認識された内容は、どのような方法によろうとも、間違いのない客観的真理であるという証明はできない。真理であるということを主張してもよいという根拠はどこにもないということを厳密に論証しています。 
誤解されるといけませんので最初におことわりしておきますが、今お話していることは、数学や論理学には当てはまりません。2+2=4 というのは、左辺と右辺、前提と結論が同じことをいってるんでして、論理学用語では恒真命題(恒に正しい命題という意味です。
→ 客観的真理は証明できないのだから、人間が「真理」を主張するのは間違っている。(ただし、数学や論理学などルールに沿った仕組みのものは当てはまらない)
このように、事実と合致しているから真理だと確信していたことでも、それと合致しない新しい事実の発見によって覆される可能性は原理的にあるのです。
 →自分の考えが間違っている可能性を常に意識すること。

2 真理へのアプローチ(誤りの排除) より。
 要するに、理論を事実とてらし合わせてみて一致したといっても、その理論が正しいということにはならない。しかし、逆に、一致しないから間違いであるということは断定できる。肯定はできないが、否定ならできるというわけです。ですから、実証とか検証による理論の正当化は厳密な意味では不可能であり、誤りを発見し、排除することによって真理に近づくことしかできないとポパーはいうのです。 
→ 真理であることの証明は不可能だが、否定ならできる。否定できない物事は真理に”近い”と考えられる。(と、ポパーは言う!)
ですから、もともと誤りを発見できないような主張の仕方、例えば、「明日の天気は、晴れまたは曇り。所によっては雨。寒冷地では雪になるかもしれません」などというように、たとえどのような事態が起ころうとも当てはまり、言い逃れができるものは、真理にいたる途を閉ざしたものであるということになります。
→ 反証の余地が無い表現は、真理に近付かない。つまり、議論するだけ無駄。

3 自然科学の方法に関する素朴な誤解とその弊害 より。
何よりも大切なことは、自分の考えが絶対に間違いのないものだとは思っていません。いずれ、誰かがもっといい理論を考えるだろうとか、自分の理論が当てはまらない部分もあるんだということを、暗黙のうちに了解しているわけです。
→自分の考えが絶対に間違いのないものだとは思ってはいけない。

終わり。